サブカルチャーのメジャーもメインカルチャーには届かない

おはこんばんにちは。今日も今日とて睡眠不足、かんきつるいと申します。

こんな口上使ったこともないのに突然思いつきで始めるとすごい違和が生じるものです。多分もうやりません。

 

先週のアメトーークで『マンガ大好き芸人』をやっていて、放送中なにげなくTwitterを眺めていると、「知らないタイトルばかり」「マイナーすぎてついていけない」と言った意見を目にしました。もしくは「人気作ばかりでつまらない」「漫画好き名乗るのにあのタイトルを出さないのは有り得ない」など。

こういう部分から漫画読みと一般層の乖離を読み取ることができます。今回の論点はここです。

 

私たち普段あたりまえのように漫画を読み、息をするように新作や話題作の情報をチェックするようなタイプの人間にとっては「アニメ化決定!」「×万部突破!」という謳い文句は毎日飛び込んでくるわけですが(重版出来はあまりあてにしてはいけません、そもそも初版がかなり少ない場合も多いので)、漫画を読まない人間に届いているのは一体そのうち何%なのか。シリーズ累計何十万部も売り上げたとしても、結局それは漫画読みの中でしか読まれていないのです。比較的ライトなオタクでも「名前と簡単なあらすじ程度なら知っている」と答えるような有名作品だとしても。

それこそ今だと「鬼滅の刃」のような社会現象にまでなった作品なら、老若男女だれしもが名前と「主人公が鬼を倒す」程度の知識は持っているでしょう。けれどそれは鬼滅の刃だからです。

普段漫画を読まない人に、今年の次にくるマンガ大賞のコミックス部門1位に選ばれた「推しの子」という作品、タイトルを聞いたことは?あらすじを言えるか?聞いても大抵は答えられないでしょう。

 

ちなみに「かぐや様」の作者はインタビューやツイートなんかで実写化に不満はないと言っているにも拘らず、「推しの子」でメディアミックスについて描いたことが実写化に対するカウンターだの出来が不満だっただのなんだの言われてしまうのはなんなのかとはずっと思ってます。実際のところは分からないけれど、少なくとも対外的にはそう言っているし、そもそも推しの子でだって悪い側面だけでなくいい側面だって描かれているのに。やはり人というものはよりセンシティブで自分が信じたい説に惹かれてしまうものなのでしょう。虚構推理で言ってました。

そんな推しの子はアプリで初回無料で読めるので一回読むといいです(ダイマ)。

閑話休題

 

だからこそ「知る場」というものが大事なのです。世の中にはソムリエという職業の人がいますが「知らない人に、わかりやすく薦める」のにとても優れた仕組みだなぁ、と思っています。人から薦められたものにいつの間にかハマっていた、という経験がある人も多いでしょう。

個人的にアメトーークは0の興味を1にする番組で、1を10にする番組ではないと思っています(2や3にはなるかもしれませんが)。だから知らないことを興味がないと一蹴するのはとても勿体ないことではないでしょうか。視聴者が1から探す手間を省き、わざわざ面白いものを教えてくれているのに。

 

窓口というものは多ければ多いほど良くて、勿論一部の人たちが知ってくれていればいいという人もいるでしょうが、大抵は大勢の人に知ってもらいたいと思っているはずなので。

自分の世界が全てではない、自分が知っていることは他人は知らないし、その逆も然り。

結局、人間は知ってることしか知らない訳ですから。