それじゃあ何が「読ませる文章」なのか

数日前にめちゃくちゃ読みにくい文章を書いたわけですけど、あれは要するに「このブログは自分のための日記としてやってますよ」といいたかったわけです。

あぁ!やめて!石を投げないで!「そんなもんインターネットに出さずにしこしこチラシの裏にでも書いてろ!」というのもよくわかります、僕だって知らない人間のつまらない人生なんて興味ありませんので。といいつつやっぱり今回も自分語り全開です。読ませる気0!

 

 

僕がインターネットに参入したのはかなり最近で、それもあって過去への憧憬というのはかなりあります。テキストサイトという奴ですね。当時にはもうそうしたサイト群も廃れて、なんならmixiも使ったことがなくて、Twitterがどんどんと伸びている時代でした。

そしてTwitterでは「短文でより面白いものを書いたものが正義(言い過ぎ?)」というような土壌が形成されていました。だからこそ大本の価値観に「魅せる文章に対する憧れ」があったのだと思います。それは「自分ができない、作れないものへの憧れ」とも言い換えられます。

ここまで書けばなんとなくわかると思うんですけど、僕の言う「読ませる文章」というのはテキストサイトTwitterでみるような物事を面白おかしく伝える文章」です。それから「企画力、題材の選択」もそうですが、これは面白い文を書くための土台として重要ではあるものの、結局のところ何をしようがどれだけ面白い企画を考えようが、「伝える文章が面白くなかったらその面白さはなにひとつ読者にはわからない」わけで。このブログを始めたときはそういう方向に持っていきたいという気持ちは間違いなくありました。無意識のうちに日記生産地になりましたけど。書きやすいものに流れた結果ですね。

 

別に(自分にとって)面白いものを書いたからと言ってこの時代にただの個人ブログがなんの前触れもなく突然脚光を浴びる、なんてサクセスストーリーがあるわけでもないのですが、やっぱり目指したいものがあるのならばそこを目指すべきだとも思います。それはそれとして日記は書きますが

 

 

SNSで発散していた「文章を書きたい欲」が宙に浮くとこうしてブログ更新が増えます。