『意味』と『価値』

いつもの

こんなブログを読んでくれている人にはなんとなく分かってもらえると信じたいのですが、私は殊更に『意味』というものに執着している節があります。自分自身のエゴイズムのために世界に求める『意味』。存在理由。レゾンデートル。

自分自身でもその言葉の真意というのはなんとなくの感覚でしか掴めていない、半ば無意識からくるものではあるのですが。

 

例えば、私は自分の快不快のような感情よりも、それを押さえつけてでも(自分の信じる)面白さというものに執着する傾向があります。その結果ストレスに侵されて常にスリップダメージが入り続けているわけですがそれは今は関係なくて。

それは私を対象とした『意味』が発生しているんですよね。自分自身のためだけに求めているエンターテイメント。

 

それがさて、そこに「第三者の目」を意識した途端にその『意味』は揺らぎはじめるわけです。それまでは内側にこもって自分の好きなように想像に、妄想に浸っていればよかったのに、他人に見られた途端にそれは誰かにとって『価値』を持たなければいけないと、少なくとも私の中ではそういった強迫観念が生まれてくるのです。

こんな場所をみつけて、かつこの文章を端から端まで読み込むような人間なんてこの世に私以外に存在しないとは思いつつ、けれどそこに私の見えない誰かがいると仮定した時にやはりそれは『価値』がなければいけない。

しかし一般人の日記帳にはやはり他人が求めるような『価値』などないのでしょう。それを思ったとき、自分の書いている文章自体がとても『無意味』なものであると感じるのです。

 

初めは自分だけのためであったはずの言葉が、この広い広い大海に紛れた途端に、波に攫われて、とても手の届かないところへと流されていってしまった。

自分自身を規定していた『意味』が大量の意思の中に紛れ、霧散してしまった。

 

そこまで失うことが怖いのならばこんなことやめてしまえばいいのに、それでも意地汚く縋り付くのは、結局のところは自分自身を捨て去ってでもいつか誰かの『価値』になりたいというとても傲慢で多大なる承認欲求が私の本当の『意味』だからなのかもしれません。

 

 

......なんて書きましたが、それにただ一つの答案を見出すこと自体が無粋で、『無意味』なことだと思います。そこに『意味』はないけれど、それを求める過程、そして辿り着く答え、その場所に『価値』があることを私は願っています。