言いたいことを言うための遥かな世界
例えば、世の中には「映像美だけですべてが許される」タイプの映画がある。タルコフスキーの『ノスタルジア』や押井守の『天使のたまご』なんかを観ればわかると思う。
映像を追っているだけではなかなか物語像は掴めず、かと言って考察したとしてそれが正しいのかもわからない、そもそもそういう見方が正しいのかもわからない、そんな映画。
もちろん映画に、というか言ってしまえば創作全般にそういう「間」やら「静謐」を求める人間もなかなか少ないだろうと思う。
じゃあ俺がどちらに属するかといえば、逃げるようだけど「まだわからない」。だから思考をまとめるためにこれを書いている。自分ではなんかわからないものを偉い人が褒めてるからなんとなく褒める、なんか絶賛しとけば頭良さそうにみえるから、そういうタイプの人間ではないのだ。自分に合わないモノ全て貶すような、自分の嫌いなモノを好きな人間の人格すらも否定するような人間ではないのだ。
結論出たのでここからは蛇足。
はっきりした起承転結のある話が好きだ。
もちろんそれにこだわる必要性はないが、盛り上がりがあって、ストンと落ちる話が面白いことは事実。
前後編のような話は別として、シリーズ内でも一本の映画はその映画で評価すべきとも思う。もちろんそのシリーズに求める今までのシリーズから踏襲して欲しいこともあるけど。単体作にせず、シリーズ名を使うのだから。
起と承の間でずっと進み、そして終わる。そんな映画をどう考えればいい?
眠くなるからつまらないのか、つまらないから眠くなるのか。
別に眠くなってもつまらないわけではないし、つまらなくても眠くなるとは限らない。態々こんなところにいる君にはわかるはずだ。
創作とは自己表現の場所。自分の頭の中を外界へと出力できる媒体。ガンダーラには辿り着けなくても、夢想することはできる。
つまり、なにかがあるはずだ。なにか込められた意味が。それがなにであるかは、結局は当事者しかわからないが。
金を稼ぐためでもいい。頭の中のイメージをそのまま描いただけでもいい。そこに形としてある意味があるはず。
ただぼんやりと浸るだけ。それでも楽しければいい。だけど俺は本当に楽しんでいるのか?周りに流されていやしないか?評価が高いから面白がってはいないか?わからない。何もわからない。
評価されているモノは面白い。だが評価されている"から"面白いというと話が違う。情報を食っているだけで本質が見えていない。
何故その表現を選んだ?何故そのシーンが必要か?意味があるのか?
今はまだわからないことだらけ。いつか理解できるのか、または永遠に理解できないのか。それもまたわからない。