20231109

 ジャンル映画というものはお金をかけるほどよくなるわけではない、ということをMEGは教えてくれる。2は見ていないため1の話である。
 というのも、その手のジャンル映画に求められているものは、決して絢爛豪華な映像や名のしれた俳優陣ではなく、ポップコーンを食べながら流し見できて、見終わったときに「まあまあの映画じゃないか」と言えるものなのだから。かのロジャー・コーマンはそれを熟知しており、低予算早撮りでまあまあのB級映画を大量に量産した。全く損をしなかったことが自慢だという。
 しかし、映画製作に限らず、お金というものはかければかけるほど失敗することが許されなくなる。投資した分のお金を回収することが最優先される。その結果、MEGではサメ映画というジャンルで求められる「血と女の裸」が全くと言っていいほど存在しない。正確には血は流れるが、肝心の食べられるシーンはカメラの外で、水が赤く染まるだけである。なぜならば過激な描写を入れてしまえば年齢制限がかかり、興行的な伸びが期待しにくくなるからだ。コンスタンティンも制限がかからないように少しぬるく作ったが、結局は年齢制限がかかってしまったらしい。
 確かにこの映画はチャイナマネーによって大変に豪華なものとなった。宣伝費も十分にかけ、実際に話題作となった。続編も公開された。サメ映画の歴史の中でこれほど巨額の制作費をかけて創られた映画はないだろう。しかしながら、それがジャンル映画として求められていたかといえば、この映画を楽しんでいる層は普段からB級のジャンル映画を楽しんでいる層とは違うと思われる(ジェイソン・ステイサムが無双するアクション映画というある意味B級の文脈ではあるのだが…)。
 商業作品である以上はしっかりと黒字になることが正義だ。だからこそ売れる脚本というものはテンプレ化され、ハリウッドではその流れに沿った作品が量産されている。だが、それでは一歩抜きん出た、もしくは明後日の方向へと突き抜けた作品というものはなかなか出てこず、無難な出来で終わってしまう。
 制作費がかかっていて豪華な作品というものは、視聴する側もそれなりの期待をもって真剣に観ようとするものだが、それが無難な出来であると期待値との落差で実際はそこまでひどくはなかったとしても落胆の幅は大きくなってしまう。それならばそこそこの予算で求められたものを出してくれる作品のほうが気軽に楽しんで観られるというものだ。チープであればあるほど心理的なハードルは地に沈む。それは濡れ場があれば何をやってもよかった日活ポルノや黎明期のエロゲに近いかもしれない。
 お金をかければかけるほど雁字搦めにされ自由からは程遠くなる。たまにブロックバスターでぶっ飛んだ映画を作る監督もいるが、それはあくまでもそれまでに結果を出してきたため許されているにすぎない。低予算では出来ることに限界はあるが、その範囲での自由は存在する。ジャンル映画に求められているのはその自由さでもあるのだ。